当園について

About

全国で唯一の
国指定名勝に
登録された牡丹園

須賀川牡丹園は、風薫る5月の息吹とともに、10ヘクタールの園内で290種・7,000株の古木が華やかにそして優雅に咲き誇ります。規模も美しさも世界最大級の名勝です。

須賀川牡丹園の歴史は、250年余り前の明和3年(1766年)、須賀川で薬種商を営んでいた伊藤祐倫が牡丹の根皮を薬用にするために、苗木を摂津国(現在の兵庫県宝塚市)から持ち帰り栽培したのが始まりといわれています。

その後、明治の初期に柳沼家が受け継ぎ、種類、株数を年々増やしてほぼ現在の形をつくり、昭和7年には国の名勝に指定されました。


牡丹園の基礎を築いた

三代目園主 柳沼源太郎

先代から牡丹園を継いだ源太郎は、家業(綿糸商)を離れ牡丹園に移り住み、「牡丹と共に起き、牡丹と共に寝た」とさえ言われたほど寝食を忘れて牡丹の栽培に没頭し、一生を牡丹園に捧げました。牡丹園の名声を高らしめ、現在の牡丹園の基礎を築いた園主です。

また、源太郎は俳句を趣味とし俳号を破籠子(はろうし)と号し俳人としても知られています。この頃から牡丹園には作家・吉川英治や歌人・北原白秋、日本画家の横山大観ら多くの文人墨客が訪れるようになりました。源太郎と親交のあった俳人・原 石鼎は幾度も園を訪れて牡丹や牡丹焚火の句を数多く詠んでいます。

牡丹園の主な歴史

江戸期

明和3年(1766年)

明和3年(1766年)、須賀川の薬種商「和泉屋」(伊藤忠兵衛祐倫)が、牡丹の根皮を薬用とするため、摂津国山本村(現在の兵庫県宝塚市)から牡丹の苗木を譲り受け、丘陵地の赤松林を開墾し、牡丹の栽培を始めた。

明治期

明治元年(1868年)

明治初年、伊藤家から須賀川中町で綿糸商を営んでいた豪商・栁沼家に譲渡される。
以降、観賞用の牡丹のほ場となる。明治36年(1903年)その字地名が「牡丹園」と改正される。

大正期

大正元年(1912年)〜
大正15年(1926年)

2代目栁沼新兵衛の長男・源太郎が牡丹園を継承。

源太郎は、「牡丹と共に起き、牡丹を共に寝た」とさえ言われるほど、寝食を忘れて牡丹の栽培に取り組み、牡丹園の名声を高らしめた。また、俳号を波籠子(はろうし)と号し俳人としても知られている。

昭和期

昭和7年(1932年)

昭和7年(1932年)文部省より国の名勝として指定を受ける。牡丹園としては全国初。

牡丹園のほ場に、江戸時代の牡丹畑としての地割の跡が残っていることと、そこに植えてある数百株の牡丹がすべて江戸時代の古い品種であることが認められたため。

入園料は昭和22年(1947年)頃からとるようになった。

昭和31年(1956年)5月21日高松宮殿下ご来園。

昭和45年(1970年)5月21日昭和天皇・皇后両陛下行幸啓。

昭和62年(1987年)には、中国洛陽市の王城公園内に建つ牡丹仙子像を模した「牡丹姫像」を建立した。

平成期

平成5年(1993年)

須賀川の牡丹のふるさとである兵庫県宝塚市へ平成5年(1993年)、牡丹の里帰りが実現。

平成6年(1994年)には五稜郭へ、そして平成25年(2013年)には京都銀閣寺に植樹をし、全国各地で須賀川の牡丹が花開いている。平成28年(2016年)牡丹園発祥250年を迎えた。

牡丹焚火

俳句の季語にもなった、
須賀川の晩秋の風物詩。

牡丹焚火は、毎年11月第3土曜日の薄暮から宵にかけて須賀川牡丹園で行われます。大正時代に、園主柳沼源太郎が古木を供養するためにひっそりと焚いていたことが始まりです。天寿を全うした古木を供養する行事となっています。夕闇の中にかすかな香りを漂わせながら燃え上がる青紫色の焔は、牡丹の精を思わせ、余情的な雰囲気を醸し出します。昭和53年には俳句歳時記の冬の季語として採択されました。また、平成13年には、環境省の「かおり風景100選」に選定されました。

文豪「吉川英治」と
須賀川牡丹園

小説「宮本武蔵」に登場する牡丹焚火

吉川英治は小説「宮本武蔵」の風の巻“牡丹を焚く”に牡丹焚火を取り上げています。武蔵が三十三間堂にて吉岡伝七郎を打ち倒した後、本阿弥光悦らと名妓・吉野太夫のもてなしを受け、牡丹の榾をくべて暖をとる情景を細やかに描写しています。これは「宮本武蔵」を執筆中の吉川英治が須賀川に重ねて訪れた時に、園主・源太郎が牡丹の木を焚いた光景に思い入れを強めたところから執筆したといわれています。